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研究ノート

note24 学びと育ちの権利の主体としての子ども目線であり続けること

2018年9月22日
乙訓不登校を考える親の会『大地』アドバイザー、
精神保健福祉士事務所・教育と人間関係の相談室カンナ代表、認定精神保健福祉士 木下秀美

 2018年9月8日に開催された乙訓不登校を考える親の会『大地』特別定例会のコーディネーターを勤めさせていただきました。地元の2市1町以外からも、当事者・家族だけでなく関わる学校・福祉・心理関係職やその卵?、間接的に不登校に関わっているという方などなど112名の参加(スピーカーの5名は除く)、70名からのアンケート回答(回収率62.5%)をいただきました。
 アンケートを読めば読むほど、企画・テーマ・運営などがみなさんのニーズにかなったもので、それぞれに新たな発見、思いを新たにしていただけたのかなぁと、主催側として重く受け止めています。子ども一人ひとりが大切な権利の主体者として堂々と生きられる社会をめざして…。反響の大きさに驚くと共に、『大地』の存在の意味や、子どもを支え合う地域のネットワーク作りの大切さを改めて感じました。
 企画・運営、当日のコーディネーターとして関わった者として、広報などにご協力頂いた方々に、自身の感想をお伝えすることで御礼に代えたいと思います。
 以下の文書は、後日に思い出しながら振り返り、フェイスブックへの公開投稿をしたものを一部修正したものです。ご一読いただければ幸いです。

■やっぱり、当事者・元当事者に教えてもらうのが一番!と改めて思う。小・中学校の発達段階では困難だが、高校年齢になると自分の気持ちをしっかりと、相手に対してわかりやすく忖度しながら話せるようになる人が少なくない。
 これまで行われてきた学校、教育、心理、医療などの角度からの、当事者本人や家族へのアプローチは、限定的で一方的で圧力的で侵襲的で的を得ない寄り添えないものになっていないか?学歴・学校化社会の押し付けの域を脱してないのではないか?など、考え直す機会にもなれた。
 不登校やその後のひきこもりは、個人や家族の問題として抱え込むべきものではない。「誰にでも生じうること」として、地域社会がより寛容に関われる環境づくりこそが大切。学校教育も、高い敷居を低くして、地域のさまざまな資源とつながりながら、この難題と一緒に向き合って欲しいと、改めて願う。
 後援や協賛などでご協力頂いたところには、アンケート集計を添えて御礼状が届けられる。教委や各学校にも…。

■学校で、教師から、かなり酷い扱いをされたことを機に(それだけではないにしても)不登校になっても、周囲の理解や、やりたいこと探しを十分にして、次のステップに移れると、不登校であったことがどうでもよくなるだけでなく、「あの先生は、きっと自分のような子どもがいるってことを知らなかったんだ」と、否定的でも受容的でもなく、客観的・寛容に認識できる人もいる。
 でも、この言葉はとても重い。

■彼ら彼女らが、学びを始めた(再開した)のは、学校ではなかった。
 ヒマ過ぎて、どの教科ならわかるか?と手に取った教科書、選んだ科目をサポートしてくれたのはネットの中の「先生」だった。
 放課後、休日の遊びと学びを提供する居場所に支えられた。
 転入した通信・単位制の高校で、やりたいことが見えて来た。
 高校は嫌になった(ならされた)ので高校卒業資格認定試験で全科目を取り、後に行きたいと思うようになった専門学校に進んだ。

 これらは、既存・既成の学校復帰や高校進学というコースではない。
 それぞれにつながり、切り開いた、独自の進路。教育行政が提供出来ないコースである。
 親・家族が、既存・既成のコースにとらわれず、過干渉せずに、ありのままの「不登校」と一緒に向き合う中で生まれた奇跡とも思えるが、小さな親の会主催の取り組みで、5人の体験者が、堂々と自らの「不登校」と今、そしてこれからを語ってくれたことに普遍性があるとも思える。
 一方で、個別性はもっと大切だろう。
 小・中学校の不登校は、再び13万人を超えている。10年経てば、13万人の不登校体験者が増える。
 公的な不登校支援の成果はどうなのだろうか?
 効果があれば、不登校は減ったのかもしれない。
 それは、イコール「回復」なのか?
 現実は平成24年度から増加に転じ、増え続けている。
 「チーム学校」という言葉が叫ばれ、学校という塀の中で「頑張る!」スタイルが再編されようとしているらしいが、5人が語ってくれた話とは、あまりにもかけ離れているように思えて仕方ない。
 もちろん、学校外の支援から、学校復帰?した体験者もいる。学校は、学校としての取り組みをして、両者が相互反応した結果、次のステージに進んだ体験者もいる。
 要は、学校が抱え込まないこと、個人・家族の自己責任で済まさないこと(ゼロトレランスの考えに取り込まれないこと)、家族が世間の学校・学歴社会信仰にとらわれずに「不登校」の子どもの力を信じること、使える社会資源を存分に浴びることを保障することではないだろうか。
 日本の学校化社会妄想は、薄く、根拠のない、子どもへの威圧的な押し付けと、自由や権利を奪う、即物的な親・家族、また学校の自己満足を満たす装置として動かされてしまっていることに、(遅ればせながらも)大人が気づくことの大切さを教えてくれたと思う。
子どもの可能性を伸ばすも諦めさせるも、大人の価値観次第である。
 子どもの権利条約が実態化する社会を目指す責任が、大人に課せられていることを、改めて自覚する機会は、こうして子どもから提供される。

■「不登校」は、やはり学校側目線の言葉ではないか?
 教育を受ける権利を有する主体者である子どもの目線に立てば、学びたくてもそこで学べない、行きたくても行けない学校であること自体が、学習権が侵害された状態。学習権を保障する義務を負う学校設置者、大人社会は、そんな状態を速やかに解決・解消する責任がある。そこに行くか行かないかは、子どもが自由に選択できなければならないだろう。
 こうして目線を変えれば、「不登校」という言葉に違和感を感じてくる。
 学校に行ってようと行っていまいと、何かに困り悩んでいる子どもが、当たり前に素朴に困りを相談したいと思う大人が、今、存在するのだろうか?
 子どもの育ちを、無条件に受け入れ喜び、その感情をきちんと子どもに伝えている(応答している)大人が、今、存在しているのだろうか?
 子どもは、親や大人の、自己満足の対象にされていないだろうか?
 大人都合で過度に期待を押し付け、比較・評価し、無意識に平然と、否定し蔑む言葉をかけていないだろうか?
 良い子、頑張る子、厄介なことを言ってこない子どもであることを、(大人が)自分を主語に望み、期待に応えることを暗に感じさせていないだろうか?
 そんな自問をすることは、シンドくてツライ作業だろうけど、子どもはそんな大人の思いを疑うことなく真正面から引き受けようとしているはずである。だから、競争と比較、評価ばかりの学校社会は、シンドい場所、安心して学べる場所で無くなっている。
 そして、個別性の尊重や配慮があるとは到底言えない現状にも晒されている。
 折しも文部科学省の事務次官、初等中等教育局長などの幹部が処分され辞任するなど、文部科学行政の呆れる実態が明らかになった。
 そして、政権は変わらない。
 何を変える?
 どこから変える?
 誰が変える?

 繰り返しになるが、子どもたちに責任はない

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